「世に溢れる研究成果のほとんどは自己満足にすぎない.」

 

いきなり過激な発言ですが,これは私の恩師の一人が以前おっしゃっていた事です.私は今でも時折論文を執筆する際に,この言葉が頭にひっかかります.

結局,自分が今書いている論文は一体何の役に立つんだろう?

一応,論文のイントロではもっともらしいことを書きます.新規性も主張します.将来性も主張します.

だけど,本音を言うと,これらは論文を採録させるためのテクニックに過ぎず,本当に書いた通りのことが期待できるのか疑問なケースがほとんどではないかと.

もちろん,分野にもよると思いますが,私の近い分野ではそのような論文がほとんどと言ってもよいくらいです.

 

研究者の存在意義は何か?


ノーベル賞級の研究や億単位の売り上げに繋がるような研究だと,誰の目にもその価値が明らか.

だけど,多くの研究者は論文業績があると言っても,所詮「自己満足」程度のことしかやれてません.

日本人初のノーベル医学生理学賞受賞者の利根川進も,著書の中で,

サイエンスの発展という視点から見ると,ほとんどの研究者は不要

と言ってます.それであれば,一般的な研究者は職業を通じて一体何を社会に還元しているのでしょうか?

実は何もない

というのが本音だろうかと.私のように,一般的な研究者にも至らないレベルだとなおさらです.論文を書いても,誰も読んでくれないのであれば何もしてないことと同じです.

執筆者の業績欄が1行増えるので,自分が恩恵を受けることをしているだけです.

 

「自己満足」を超えた研究とは何か?


しかし,他の研究者が書いた論文は何がヒントになるか分かりません.結果や結論だけでなく,着眼点がヒントになることもあります.

そういうヒントは,別の研究者が極めて重要な研究成果を生み出すきっかけになるかもしれません.直接的ではありませんが,間接的に社会に役立つことになるともいえます.

その意味では,「論文の被引用数の多さ」は自分の書いた論文がどれだけ社会に貢献したかを表すバロメータと言えるかもしれませんね.

 

単に「フルペーパーを執筆しジャーナルに掲載される」という自己満足のレベルを超えて・・・

引用してもらえるような論文を書く,あるいは被引用数が多い論文が掲載されたジャーナル(高インパクトファクタ(IF)のジャーナル)に採録されるような論文を書く.

IFにこだわるのは,単なる「点取り屋」になるというのではなく,より社会に貢献することを間接的に意味するのではないかと思います.

これこそ自己満足を超えた研究に脱皮する最初の一歩ではないかと.当たり前といえば当たり前の結論かもしれませんが(笑)

 

恩師が何気なく発した言葉は,いつまでも覚えているものです.

今回の科研費で実施する研究では,高IFのジャーナルに採録されることを目指したい